皇居になっている江戸城ってなぜ天守閣がないんだろう?そしてなぜ再建されないんだろう?
結論から言うと、1657年の明暦の大火と呼ばれる江戸の大火事により焼失して、そのまま建てられることがなかったためです。
いつ建てられていたのか、どんな天守があったのか、なぜ再建されることがなかったのかの詳細をコチラの記事にて紹介したいと思います!
そもそもどんな天守閣があったのか
日本を代表する姫路城や大阪城など大きいお城には必ずと言っていいほど目立つ天守があります。
もちろん、徳川家康が改築した今も残る江戸城にも天守が存在していました。
もともと日本最大規模の大きい天守があった
まず最初に徳川家康が江戸幕府を開いた後、全国の大名に命じて(天下普請)江戸城を改築したのが始まりです。
全国の大名を動員したのもあってか、日本で最大規模のお城・天守となりました。
そして、長い江戸時代の中で何度か改築して結果、3代にわたる天守が存在し、それぞれ元号の名前がついた天守で呼ばれています。
最後の寛永度天守の高さは約44.8mと、現在まで残っている姫路城天守の31.5mと比較してもかなり大きい規模であったことがわかります。
3代変わった天守の完成年一覧
- 初代:1607年/慶長度天守が完成
- 2代目:1622年/元和度天守が完成
- 3代目:1637年/寛永度天守が完成
火事により焼失してしまう
1637年に寛永度天守が完成してから20年後の1657年に、明暦の大火と呼ばれる江戸の街を火で覆い尽くした火事によって天守を含めた本丸、二の丸、三の丸と江戸城の多くの建造物が燃えてしまいます。
江戸の三ヶ所から発火して都市部の約6割が燃え、10万人以上が亡くなったと言われており、江戸の急速な発展により過密化した街も焼き尽くしました。
当時再建されなかった理由
現存する高知城天守みたいに一回焼失したとしても再建されることはありました。
それではなぜ江戸城の天守は再建されなかったのでしょうか?
それは徳川家康の孫であり、4代将軍の家綱の補佐をした保科正之が明暦の大火のあと、実用的ではない天守にお金を使うなら街の復興にお金を使いたいと主張したためです。※
平和になって数十年経ったのと大災害の後という「平和な時代と経済的な理由」があったため再建されなかったと言ってもいいでしょう。
ただ、当初天守を再建する話もゼロではなく、天守台だけ作られ、それは現在も残っています。
2016年熊本震災の後に熊本城の復興が優先課題になったように、現代では復興のシンボルとして優先されることもありますが、江戸城天守は復興されなかったようです。
再建のための活動が活性化
江戸城が天守を失ってから約400年弱ほど経ちましたが、現在江戸城は皇居となっています。
天守台がある場所は皇居東御苑と言って見学することはできます。
そんな現在でも江戸城天守の再建を望む声がありNPO法人も存在しています。
個人的にも江戸城天守再建はお城の歴史的価値を後世に残すために重要な位置づけであり、東京のシンボル、観光地としても価値を見いだせるのではと思っております。
ただ、皇居内であることから宮内庁管理のなかでどこまでできるのか、木造で完全再建するなら建築法に引っかかる等超えなければならない壁がたくさんあります。
ぜひとも関係各者全員が同意できた状態で江戸城天守が再建される日が来るのを望んでいます!
まとめ
天守閣がないのは、火事で消失し再建されなかったため
- 大火事で焼失したため、城下の復興を優先した
- 平和な時代になり天守の実用性がなくなっていた
- 東京のシンボルとして再建を望む声もある