弘前城の天守はなぜ移動した?ひきやと石垣修理

下乗橋から見た弘前城天守と本丸東面の石垣(2010年撮影)
悩む庶民

弘前城の天守って、どうして建物ごと動かしたの?

天守の下にある石垣を解体して修理するためだよ。重要文化財の天守を壊さず残すため、建物を丸ごと移動させる「ひきや」が選ばれたんだ。

弘前城では、天守そのものを解体せず、石垣の上から本丸中央へ移動させる大工事が行われました。

観光の演出で動かしたわけではありません。本丸東面の石垣に膨らみが確認され、崩落する危険性が指摘されたためです。

ところが、修理する石垣の上には江戸時代から残る天守が建っています。石垣を解体するには天守をよけなければならず、天守を守るには建物を壊さず移さなければなりません。

石垣と天守という2つの文化財を、どちらも残すための答えがひきやでした

この記事では、弘前城天守をなぜ動かしたのか、どのような技術で77.62メートル移動させたのか、そして小さな天守にどんな仕掛けがあるのかを、弘前市と文化庁の資料から読み解きます。

下乗橋から見た弘前城天守と本丸東面の石垣(2010年撮影)
2010年の弘前城天守。石垣修理に伴うひきやの前は、本丸東面の石垣上に建っていました

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弘前城天守を動かした理由

石垣の「はらみ」は崩落の兆候

弘前市は、本丸東面の石垣について、以前から「膨らみ」が確認されていたと説明しています。

石垣が外側へ押し出されるように変形する状態は「はらみ」と呼ばれます。見た目の問題だけではありません。変形が進めば、石が抜けたり積み方が崩れたりする危険があります。

弘前市の説明は明快です。

弘前城本丸東面の石垣には、以前から膨らみが確認されており、崩落する危険性が指摘されてきました。

弘前市「事業内容と計画」によると、修理方法の検討を重ね、石垣を解体修理する方針が決まりました。

修理範囲の上に天守があった

弘前城の天守は、本丸南東隅の天守台に建っていました。修理対象となる本丸東面石垣の上です。

石垣を一つずつ外し、内部の状態を調べ、積み直すには、上にある天守を一時的に移す必要があります。

ここで重要なのは、弘前城天守が復元建築ではないことです。江戸時代後期から残る建物で、国の重要文化財に指定されています。

解体して新しく組み立てれば同じ形には戻せても、長い年月を経た部材の組み合わせや建物の履歴まで同じになるとは限りません。

そこで採用されたのが、建物を解体せず、その形を保ったまま移動させるひきやです。

弘前市「弘前城本丸石垣修理事業」は、石垣解体修理へ向け、天守を本丸中央へ移動したと記録しています。

悩む庶民

石垣を直すために、天守をいったん避難させたわけか。

そう。石垣だけを優先して天守を壊すのでも、天守を優先して危険な石垣を放置するのでもない。両方を保存するための移動なんだ。


ひきやとは建物を壊さず移動する技術

まず天守を持ち上げる

ひきやは、完成した建物をそのまま横へ滑らせるだけの工事ではありません。

建物の荷重を受けられるよう補強し、ジャッキで持ち上げ、下に移動用の構台やレールを組みます。建物を元の基礎から切り離し、別の場所まで動かして、新しい土台へ据え直します。

弘前城の2015年の記録では、天守を持ち上げる「揚屋」を行ったあと、井桁と移動道、レールを設置しています。

つまり、目に見える横移動の前に、天守の重さを安全に受け替える準備が必要でした。

直進だけでなく回転もさせた

天守台から仮天守台までは一直線ではありません。

弘前市の工程記録を見ると、天守は複数回に分けて移動し、その途中で向きを変えています。高さを調整し、レールを組み直し、直進と回転を繰り返しました。

大きな建物を動かすと聞くと、強い力で一気に引く場面を想像しがちです。実際には、わずかな距離を進めるたびに姿勢と高さを確かめ、次の移動道を整える作業の積み重ねです。

弘前市の工程記録から分かるのは、天守を一気に引いたのではなく、移動、回転、高さ調整を分けて進めたことです。

2015年に77.62メートル移動した

弘前城天守のひきやは、2015年に完了しました。

弘前市の最終記録にある移動距離は、通算77.62メートルです。最後に天守を仮天守台へ下ろし、本丸中央で建物を安定させました。

弘前市「平成27年度 弘前城本丸石垣修理 事業内容」には、持ち上げ、レール設置、直進、回転、高さ調整、着座までの工程が日ごとに残されています。

この77.62メートルは、およその計画値ではありません。実際に完了したひきやの通算記録です。

本丸中央の仮天守台に移された弘前城天守(2016年3月撮影)
2016年の弘前城天守。77.62メートルのひきやを終え、本丸中央の仮天守台に据えられた姿です

2枚の写真を比べると、天守の足元が違います。

2010年の写真では、高い石垣と天守が一体になって見えます。2016年の写真では、天守は地面に近い仮天守台の上にあります。

建物の形は同じでも、土台と視点が変わるだけで印象は大きく変わります。この違いこそ、天守を解体せず移動できた証拠です。


弘前城では明治時代にも天守を動かしている

弘前城天守のひきやは、2015年が初めてではありません。

弘前市「弘前城と石垣修理の歴史」によると、明治29年に石垣が崩落した際、放置すれば天守まで崩落する危険がありました。

その翌年、弘前出身の大工棟梁・堀江佐吉が、天守を西側へ移動させています。

弘前城には、天守を動かして石垣を直し、また残すという保存の経験がすでにあったのです。

時代が変われば、調査方法や機械、文化財保護の考え方は変わります。それでも「建物を壊さずよけて、土台を直す」という発想は共通しています。

弘前城のひきやは、珍しい技術の見世物ではありません。石垣と木造建築を一組の文化財として未来へ渡す、長い保存史の一部です。


弘前城天守はなぜ小さく見えるのか

現存天守は1810年に造られた

弘前城で最初に造られた天守は、1810年造営の建物とは別です。

弘前市によると、築城当初の天守は本丸南西隅にあった五層の建物で、落雷により焼失したと伝わります。

その後、長いあいだ天守を持たない時期が続き、文化7年(1810年)に現存天守が造られました。

文化遺産オンライン「弘前城 天守」は、この建物を江戸後期の三重三階櫓、銅瓦葺と記録しています。

「三重」は外から見える屋根の重なり、「三階」は内部の階数です。五層だったと伝わる築城当初の天守と比べれば、1810年造営の天守が小さく見えるのは当然です。

しかし、小さいから価値が低いわけではありません。江戸時代後期の建物がそのまま残り、東北地方に残る唯一の現存天守であることに価値があります。

「櫓」として許可を得た天守

弘前市の文化財案内は、9代藩主津軽寧親が櫓造営の名目で幕府の許可を得て現存天守を完成させたと説明しています。

この事情は、建物の規模を考える手がかりになります。

巨大な五層天守を再建したのではなく、三重三階の櫓として許可を得た建物が、城の象徴となりました。

「小さい天守」という印象の裏には、江戸時代後期の政治的な制約と、城を象徴する建物を持ちたい弘前藩の工夫があります。

二の丸側と本丸側で表情が違う

弘前城天守には、見る方向によって印象が変わる仕掛けがあります。

弘前市の説明では、二の丸に面する東・南の2面には、破風や懸魚を白漆喰で仕上げた張り出しがあります。

一方、本丸側の北・西面と内部は質素に造られています。

二の丸に面する東・南面には意匠を設け、本丸側の北・西面と内部は簡素にする構成です。

弘前城天守は、四方が同じ顔をした建物ではありません。写真を見るときも、どちら側から撮られたかを意識すると、破風の有無や壁面の違いが読めるようになります。

悩む庶民

小さいと思って終わるより、どの面を見ているか考えるほうが面白いね。

そうなんだ。規模だけで比べると見落とすけど、二の丸側と本丸側で表情が違う建築だと分かると、天守の見方が変わるよ。


天守だけではない弘前城の価値

弘前城で江戸時代から残る重要文化財は、天守だけではありません。

弘前市は、3棟の二の丸隅櫓と5棟の城門も重要文化財に指定されていると説明しています。

  • 二の丸隅櫓:辰巳櫓、丑寅櫓、未申櫓
  • 城門:三の丸追手門、三の丸東門、二の丸南門、二の丸東門、北の郭北門

天守1棟だけを見ると、小さな城に思えるかもしれません。

ところが城内には、築城期から残る櫓と門がまとまって残っています。天守、櫓、門を一緒に見ることで、弘前城が江戸時代の城郭構成をどれだけ伝えているかが分かります。

文化遺産オンラインでも、弘前城天守と関連する櫓・門の文化財情報を確認できます。

弘前城は現存12天守の一つです。ほかの現存天守との違いは、一覧記事で比較できます。

日本100名城にも選ばれています。


工事中の弘前城を訪れる前に確認すること

弘前城の保存工事は、天守の移動だけで終わるものではありません。

石垣、天守の基礎、建物本体、園内動線など、確認すべき対象が工程によって変わります。

そのため、この記事では天守の位置、内部公開の再開時期、外観の見え方、料金、開園時間を固定して掲載しません。

訪問前は次の2つを確認してください。

工事の日程は天候や進捗で変わります。古い旅行記事や過去の写真だけで判断せず、訪問日に近い公式案内を確認するのが確実です。

一方、天守を移動した理由、2015年のひきや記録、1810年造営の建築的特徴は、工事の進行で変わりません。

工事中だから価値が減るのではなく、文化財をどう残すかという現場そのものが、弘前城の新しい歴史になっています


よくある質問

弘前城の天守はなぜ移動したのですか

本丸東面の石垣に膨らみがあり、崩落の危険性が指摘されたためです。天守台を含む石垣を解体修理するには、上に建つ重要文化財の天守を一時的に移す必要がありました。

ひきやで天守は壊れないのですか

天守を補強して持ち上げ、井桁、レール、ジャッキなどで荷重を支えながら少しずつ移動します。直進だけでなく回転や高さ調整も行い、建物の姿勢を管理して仮天守台へ据えました。

弘前城天守はどのくらい移動しましたか

2015年のひきやで、本来の天守台から本丸中央まで通算77.62メートル移動しました。弘前市の2015年度記録で全工程を確認できます。

弘前城天守はいつ建てられましたか

現存天守は文化7年(1810年)に造られました。三重三階、銅瓦葺の建物で、国の重要文化財です。

弘前城天守の中に入れますか

内部公開の可否は保存工事の工程で変わります。訪問前に弘前市の石垣修理事業ページで確認してください。

工事中でも弘前城へ行く意味はありますか

天守を動かした理由や石垣修理の現場を知ると、城を完成品ではなく、守り継がれる文化財として見られます。天守以外にも、江戸時代から残る3棟の櫓と5棟の城門があります。


まとめ

弘前城天守が移動した理由を整理します。

  • 石垣に膨らみと崩落リスクがあった:天守台を含む石垣の解体修理が必要になった
  • 天守を壊さず残すためひきやを選んだ:建物を持ち上げ、レールとジャッキで移動した
  • 2015年の移動距離は77.62メートル:直進、回転、高さ調整を重ねて本丸中央へ移した
  • 現存天守は1810年造営:三重三階で、二の丸側と本丸側の意匠が異なる
  • 櫓3棟と城門5棟も重要文化財:天守だけでなく城郭全体に現存建築が残る

弘前城のひきやは、「大きな建物が動いた」という珍しさだけで見るには惜しい工事です。

危険な石垣を直しながら、江戸時代の天守を解体せず残す。その両立のために、建築、土木、文化財保存の技術が使われました。

天守を動かした事実より、なぜ動かす必要があり、どうすれば壊さず残せるかを考えるところに弘前城の面白さがあります

訪問時の工事状況は弘前市の公式ページで確認してください。

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