お城の「なぜ?」図解
戦国時代の小田原城は、城下町まで含む広い範囲を堀と土塁で囲っていました。 北条氏が秀吉との合戦に備え、1590年までに築いた外周の守りは、全長約9kmに及びます。
悩む庶民お城の周りだけじゃなくて、町ごと!? それ、門を入ってもまだ家がいっぱいあるってこと?

そう、城下町も囲いの内側に入ります。天守のある一角だけを「城」と思っていると、想像よりずっと大きいんです。
守る範囲が、建物から町へ一気に広がる! この大きな外周の守りを、総構(そうがまえ)と呼びます。
では、9kmもの周りをどう守ったのでしょう。全周に巨大な石垣を積んだわけではありません。小田原の山と町を見渡し、今度は地面を横から見ると、堀と土塁の工夫がつながってきます。
城址公園から視野を広げると、町まで城の中だった
いま小田原城を思い浮かべると、天守や本丸、二の丸の景色が浮かぶかもしれません。でも戦国末期の守りを考えるときは、もっと広い範囲を見る必要があります。
市の文化財解説は、北条氏の城が拡大し、1590年の小田原合戦では城下町を取り込む総構で豊臣勢を迎えたと説明しています。城の周囲だけの堀に、もう一本大きな囲いを足す感覚です。
図では、現在の城址公園付近を小さな目印にし、その外側に広がる町と丘陵へ目を移してみてください。

約9kmは、端から端までの幅ではなく、外周の長さ。 しかも、きれいな円や四角で囲ったわけではなく、地形に沿った堀や土塁が連なっていました。
お城を見に来たつもりが、町の坂道や住宅地の向こうにも話が続いている。城の大きさを「天守の高さ」だけで測れないところが面白い!
実際の総構の範囲や遺構の位置は、小田原市の総構マップで確認できます。上の図は関係をつかむための模式図で、見学用の地図ではありません。
全部を石の壁にしなくても、地面で守れる
総構を、町の周りにぐるりと立つ石造りの城壁として想像すると、少し違ってきます。小田原で大切なのは、堀と土塁、そして元からある地形です。
土塁(どるい)は、土を盛った土手状の守り。空堀(からぼり)は、水をためていない堀です。名前だけだと簡単に見えるけれど、二つを横から並べると、手ごわさが分かります。

外から来る相手は、深く掘った場所を下り、そこからまた上らなければならない。さらに内側には、土を盛った高さが加わる。「掘って低くする」と「盛って高くする」を合わせると、越える側の高低差が大きくなるわけです。
悩む庶民水が入ってなかったら、ただの溝だと思ってた……。これ、下りたあとが大変じゃん!

城を守るなら、相手に平らな道を歩いて来られるより、足を止めてもらいたいのう。堀底から見上げるつもりで図を見るのじゃ。
山側の堀も、町の低い場所の守りも、どこも同じ形だったわけではありません。たとえば市が紹介する小峯御鐘ノ台大堀切は、尾根を分断して築いた大きな空堀。一方、低地の蓮上院土塁では、東側に水堀が設けられていました。
地形が変われば、守り方も変わる。9kmを一本の均一な壁として描くより、山と低地で何が違うのかを見ると、総構が立体的になってきます。
空堀と水堀の違いをもう少し知りたい方は、お城の堀の意味と種類もどうぞ。
町へ入る場所にも、一つでは終わらない守り
広く囲ったからといって、周囲のどこも同じように守ればよいわけではありません。人が出入りする場所にも、工夫が要ります。
総構の南西側にある早川口遺構(はやかわぐちいこう)は、堀と土塁を二重に配した場所。市の解説では「二重外張(ふたえとばり)」と呼ばれ、北条氏の時代には城の出入口があったと考えられています。
下の図では、外側から内側へ向かって、堀、土塁、さらに堀、土塁という重なりをたどってみましょう。

一つ越えて終わり、ではなかったんだ! 全体図では細い一本に見えた守りにも、場所を近くで見ると厚みがあります。

わしが町を預かるなら、囲いの長さだけで安心はできぬ。内へ入ってくる場所こそ、どう備えるか考えたいのじゃ。
しかも、早川口の土塁は、土だけを盛ったものではありません。市の解説によると、発掘調査で大きな玉石を積み上げて築いた部分が確認されています。土の守りの中に、石も使われていたんだ!
ただし、この図は二重に備える考え方を示したもの。門の形や、敵が進んだ経路を復元した絵ではありません。また、総構の全周がこの二重構造だったという意味でもありません。
いま見える天守と石垣を、1590年の姿に重ねない
総構の話を知ると、「では、今の天守の周りに9kmの囲いを描けば、北条氏の城になるの?」と思うかもしれません。ここは、時代を分けたいところです。
現在の城址公園となっている本丸・二の丸周辺は、江戸時代に大きく改修されました。市の文化財解説では、1632年に稲葉正勝が入ってから、主要な区画に石垣を積むなどの変化があったとされています。
そして、いま立つ天守は1960年(昭和35年)に復興されたものです。江戸時代の模型や設計図を基にした外観で、北条氏の時代から残る建物ではありません。
さらに現在見える石垣にも、関東大震災後に積み直されたものがあります。目の前の城址公園の景色が、そっくり1590年の景色というわけではないのです。
悩む庶民同じ小田原城なのに、町の外側と天守の周りでは、見ている時代も違うんだ!

はい。総構の土塁や空堀をたどるときと、城址公園の建物や石垣を見るときで、少し時間の目盛りを切り替えると分かりやすいです。
「古そうなもの」を全部ひとまとめにするより、どこがいつの守りなのかを考える。すると、城の中を歩くだけでも、時代を行き来する楽しさが出てきます。
出典:小田原市「史跡・小田原城跡」江戸時代の改修と近代以降の変化
天守を見たあと、町の高低差も見てみよう
小田原の総構は、天守を大きくする発想とは違います。城下町まで囲い、山と低地それぞれの場所で、越えにくい守りをつくる。 城の外だと思っていた場所も、その仕組みの一部でした。
いま残るのは、9kmの壁が完全につながった姿ではありません。それでも、堀のくぼみや土塁の盛り上がりを知ると、町の風景の読み方が変わります。
小田原城を写真で見るときも、地図を開くときも、天守だけで画面を閉じず、その周りの丘陵と町へ少し目を広げてみる。「ここまで城の話が続いていたのか!」と思えることが、この総構の面白さです。
天守や城址公園を見学する予定がある方は、小田原城の所要時間と回り方へ。総構の遺構を訪ねる場合は、同じ市内でも城址公園とは別の場所になるため、市の総構案内で場所と公開状況を確かめてください。
参考資料・図解について
- 小田原市「史跡・小田原城跡」:総構、残る遺構、江戸時代の改修とその後の変化。
- 小田原市「総構」:空堀、土塁、早川口の二重外張、蓮上院土塁。
- 小田原市「総構マップ」:実際の範囲と遺構の位置。
- 小田原城公式:城下を囲む総延長9kmの総構。
確認日:2026年9月10日。表紙・図解は城なびがAIを用いて制作した説明用イラストです。輪郭、地形、町並み、地層、寸法は模式化しており、実測図・復元図・見学地図ではありません。将軍の吹き出しは城を守る側の目線を考えるための創作で、実在人物の発言ではありません。
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こちらは、ある程度お城をめぐって、天守の美しさだけではなく、内部構造や城郭、土塁、石垣、門、櫓などお城を成している構造物に着目している方向けです!
より深くお城に対しての知的好奇心がわく内容になっており、これを見ながら巡ると、着眼点が「お城っていいな~」から「このお城を攻めるには/守るにはどうすればいい!?」と変わってきます!おすすめです!


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