徳川の大軍を退けた上田城。少ない兵を支えた守りとは?

徳川の大軍を退けた上田城。少ない兵を支えた守りとは?。古い紙に淡い水彩で描いた説明用イメージ。

上田城では、川と崖を取り込んだ攻めにくい地形が、少ない兵の守りを支える条件の一つでした。 ただし、地形だけで勝因のすべてを説明できるわけではありません。

上田市が紹介する1585年の第一次上田合戦は、2千人足らずの真田軍に対し、徳川軍は7千人余り。それでも退けたというのだから、人数を並べるだけでは分からないものがありそうです。城の足元から、その手がかりを探してみましょう。

悩む庶民

そんなに大勢なら、ぐるっと囲めば勝てちゃいそうだけど?

守る側なら、どこからでも簡単に近づける場所は避けたいのう。まず、南側の川と崖を見てみるのじゃ。

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最初の上田合戦は、1585年

上田城を築いたのは真田昌幸(さなだまさゆき)です。1585年、昌幸の城へ徳川軍が攻め込みました。

上田市が紹介する両軍の兵力を並べると、次のようになります。

1585年の第一次上田合戦は真田軍2千人足らず、徳川軍7千人余り。上田市の解説による兵力差。
第一次上田合戦の兵力。上田市「上田城の歴史」の説明に基づき、厳密な実数の確定を示すものではありません。城なび制作。

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ただ、兵力は「どこで、どう戦うか」と切り離せません。たとえば城の南側から近づこうとすると、川と崖が立ちはだかります。

出典:上田市「上田城の歴史」1585年

上から見ると、川と崖の守りがつながる

上田市の解説をもとに、城だけでなく、周りの土地まで見渡してみましょう。北に山、南に川。その間に城と城下町があると分かると、上田城の守りが立体的に見えてきます。

上田城と城下町、南側の崖と川、北・西の水路を俯瞰した模式図。部隊配置・進軍経路・距離・高低差の復元ではありません。
城と城下町、川と崖を一緒に見るための鳥瞰模式図。距離や高さは模式化し、区画・建物は省略しています。1585年の部隊配置・進軍経路の復元ではありません。城なび制作(AI生成)。

鳥瞰図を大きく見る

まず図の手前、南側を見てください。川のすぐ向こうに崖があり、その上に本丸があります。次に北・西へ目を移すと、周辺の川や堀も守りに組み込まれていることが分かります。

一方、東側は地形が開け、城下町が広がる側です。図では、南側の川と崖、北・西の水路、東側の城下町を見比べてください。部隊配置や実際の進軍経路を復元した図ではありません。城へ近づく条件は、方向によって違うのです。

この図は、上田市が解説する地形の位置関係を整理したものです。1585年の堀・建物・城下町の配置が、この図のとおりだったと確認できるわけではありません。川の形や幅、城の各区画も模式化しています。

出典:上田市「上田城の特徴」地形・水系・東側の地形

南側の守りを、今度は横から見てみましょう。上田城は、段丘の端、土地が一段低くなる縁に築かれています。

とくに南側の尼ヶ淵(あまがふち)は、千曲川の分流に面した崖です。本丸はその上にあり、川と高低差が守りを助けていました。さらに周辺の河川は、流れを変えて城下町を囲む外堀にも利用されました。

本丸が崖の上にあり、南側の千曲川の分流と高低差が守りを助けることを示す断面の模式図。
上田城南側の川・崖・本丸の関係を説明する断面の模式図。実際の川幅、高さ、建物、戦闘経路を復元したものではありません。城なび制作。

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川を越えたら、今度は崖。その上に城がある。なるほど、人数が多くても、ただ歩いて近づけるわけじゃないんだ! 高い場所を守りに使う発想が、図で見るとつかみやすくなります。

もちろん、川と崖だけで合戦の勝因がすべて分かるわけではありません。合戦の詳しい経過には、後世に成立した軍記に基づく説明もあります。ここでは、確認できる地形と城づくりから、少数の守備を支えた条件を見ています。

出典:上田市「上田城の特徴」地形・川・縄張り上田市マルチメディア情報センター「信州上田軍記」解説

徳川を退けた城は、徳川の援助で築き始めた

ここで、少し時間を戻します。上田城の築城が始まったのは1583年。当時、昌幸は徳川家康に従っており、徳川の援助を受けて城を築き始めました

ところが、家康から沼田領を北条氏へ譲るよう求められると、昌幸は拒みます。徳川と対立し、今度は上杉景勝に援助を求めました。上田市の解説では、第一次上田合戦の際の城の工事にも、上杉方の武将が動員されたとされています。

悩む庶民

えっ、自分たちが援助した城に、今度は攻め込むことになったの!?

そうなんだ。味方だった大名との関係が変わり、城の役割も変わった。昌幸の戦いは、城の外の交渉から始まっていたんだね。

徳川の援助で始まった城が、徳川を退ける舞台になる。ここも意外です! 「少人数の真田だけですべて準備した」と思うと、こうした援助や交渉が見えなくなってしまいます。

出典:上田市「上田城の歴史」真田氏の築城から江戸時代まで

「秀忠の3万8千人を足止め」は、別の戦い

上田城の話には、もっと大きな兵力も登場します。徳川秀忠が率いた3万8千人の部隊です。

これは1585年ではなく、1600年の第二次上田合戦。関ヶ原の戦いが起きた年に、昌幸と次男の信繁(幸村)が上田城に籠もり、秀忠軍を足止めした出来事です。

1585年は2千人足らずの真田軍が7千人余りの徳川軍を退け、1600年は秀忠の3万8千人の部隊を足止め。
1585年の第一次と1600年の第二次を区別した図。兵力と出来事は上田市の解説に基づきます。城なび制作。

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7千人余りを退けた最初の合戦と、3万8千人の部隊を足止めした二度目の合戦。大きな数字だけを混ぜると、一つの超人的な戦いに見えてしまいます。二回を分けると、上田城で起きたことがずっと分かりやすいんですね。

上田市は、秀忠軍が関ヶ原の決戦に間に合わなかったことも紹介しています。ただし、足止めは大軍を全滅させたという意味ではありません。城を守り、相手の行動を遅らせることにも、戦いの意味があったのです。

出典:上田市「上田城の歴史」1600年上田市「上田城の歴史」第二次上田合戦

今度は櫓だけでなく、城の足元を見てみよう

二度の戦いで知られる上田城ですが、関ヶ原の後には徳川方へ明け渡され、1601年に破却されています。その後、1626年に仙石忠政が復興工事に着手しました。

今見える櫓や石垣が、そっくりそのまま真田の合戦を見ていたわけではありません。尼ヶ淵の地形や川の流れにも、後の洪水による変化があります。

建物だけでなく、「どうやってここまで攻め上がるんだろう?」と足元を見る。そんな目線が加わると、崖の高さにも意味が見えてきます。後の地形の変化はありますが、今ある高低差も、土地を守りに使う発想を考える手がかりです。

出典:上田市「上田城の歴史」1601年・1626年・1631年

建物と城全体の歴史を分けて見ると、大阪城にも意外な発見があります。

本文・出典の確認日:2026年9月8日。表紙と鳥瞰図はAI生成。本文の図解は城なび制作の説明図で、合戦の配置図や当時の建物の復元図ではありません。

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